六畳間

不治の病と闘いながら、俳句や随筆『病牀六尺』など多くの作品を生み出した病間兼書斎。母八重、妹律に支えられながら、亡くなる二日前まで新聞「日本」の記者として文章を書き続け、明治35年9月19日未明、この部屋で永眠した。机(複製)の切込みは、病で曲がったままの左脚を入れ、安定させるために子規が考案したもの。障子がガラス戸に換わったのは、亡くなる3年前である。